BIOGRAPHY by RENDEZ-VOUS

1979

当時、アマチュア・ミュージシャン達にとっての登竜門であった
ヤマハ主催の『EAST WEST』。この年、このコンテストの関東・
甲信越大会で氷室狂介率いる "デスペナルティ" と布袋寅泰率いる
"BLUE FILM" が決勝を争った。その結果、"デスペナルティ" が
優勝を手にし、全国大会に進出。ここでも彼らは見事に入賞を飾り、
さらに氷室はベスト・ボーカリスト賞も獲得した

氷室と、そして松井恒松が参加していたこの "デスペナルティ" は、
ほとんどのアマチュア達がそうであるように、プロになることを
目標に活動していた。地元のファンのみならず、群馬県内の他の
地区のロック・ファン、そしてアマチュア・ミュージシャン達からも
注目を集めていた彼らは、すでにいくつかのコンテストでの入賞を
繰り返していた。そしてこの『EAST WEST '79』で入賞したのを
きっかけに、ついに上京を決意したのだ。

上京に際して、このコンテストの主催者であったヤマハからの
誘いは当然あったのだが、デビューをエサに契約を迫るような
彼らのやり方が気に入らずにメンバーはこれを蹴ってしまう。
代わりに、「Being」という音楽事務所と契約を結んでの上京だった。
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こうして、東京においての音楽活動がいよいよ始まるはずだった。
ところがところが練習を開始してしばらくすると、彼らは突然
事務所側から、実力不足ということを理由に "バンド解散" を
申し渡されたのだ。どう考えても理不尽な命令だった。しかし群馬から
上京したばかりだった上に、プロの世界についてはまだ右も左も
わからなかった年若い
氷室達にとって、この命令は絶対に思えた。

結局バンドは解散。メンバーはそれぞれ別の仕事のために
チリヂリになり、
氷室は事務所からの命令で、それまで全く知らなかった
バンドのボーカリストとなったのだ。
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氷室が新たにボーカリストを務めることになったバンドは
"スピニッヂ・パワー" といって、当時流行だったディスコ・ミュージック
風の音楽をレパートリーとしていた。彼らが発表したセカンドアルバム
『ボロー・ボロー・ボロー』( '79・12・12リリース )が
氷室にとっての
実質的なレコード・デビューということになる。

しかし氷室にとって、自分の音楽性とは全くかけ離れたことを
やっていたこのバンドでの活動は苦痛でしかなかった。
その上その不満を年の離れたメンバーに言うこともできずに、
ひたすら耐えることを強いられた日々だったのだ。


 

1980

悩んだ末、もうこれ以上 "スピニッヂ・パワー" で活動を続けては
いけないと結論を出した
氷室はバンドを脱退。ひとりになって新たに
バンドを組もうと決心した。しかしこの計画は思うようには進まず、
結局は思い描いたようなメンバーが集まらないまま、行き詰まってしまった。

音楽業界に失望した氷室は、本気で群馬に帰ることを考え始めていた。
失意の日々を送っていた彼に転機が訪れたのは夏のある日のこと。
7月5日、日比谷野外音楽堂でRCサクセションのコンサートを観て
ショックを受けた
氷室は、もう一度バンドのメンバーを捜す努力をしてみようと
決意したのだ。
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氷室がまず思い出したのは布袋寅泰のことだった。
布袋も氷室と同時期にあるレコード会社に引っ張られて上京し、
それ以来数々のバンドを渡り歩いていた。だが落ち着く先が見つからず、
うんざりした末に、音楽活動自体から遠ざかってしまっていたのだ。

その頃東京・福生に住んでいた布袋氷室が電話で連絡をとって、
六本木で再会。再会とはいっても、
氷室布袋が東京で会うのは
この時が初めて、じっくりと話をしたのもこれが最初だった。
群馬時代はお互いに顔を知ってはいたものの、ライバル・バンドの
メンバー同士ということで、会ってもまともに話をしたことすら
なかったのである。

話をしてみて驚いたのは、お互いの音楽の趣味が似てるという
ことだった。
氷室からの、「一緒にバンドを組んでみないか 」という
提案に、
布袋がOKの返事を出したのはそれから数日後のことだった。
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バイトをして生活費を稼ぎながら、曲作りにはげむという毎日が始まった。
またそれと同時に、
氷室布袋以外のメンバー探しも始められた。
2人はとりあえず、東京周辺のライブ・ハウスにメンバー募集の貼り紙を
してみることにした。だが、オーディションに集まってくる連中の中に
これといった人間も見当たらず、たび重なるオーディションに2人は
うんざりしていた。

そんな彼らの前に "デスペナルティ" の解散以来、活動の場を
別にしていた、ベースの
松井が噂を聞きつけ、バンドに参加したいと
申し出てきた。

"デスペナルティ" 解散後、松井は "織田哲郎&9thイメージ" という
バンドで活動を続けていた。'80年9月にはこのバンドでアルバム・デビュー。
その他にもスポーツメーカーのCM作りやコンサート活動に参加するなど、
かつての仲間の中では一番堅実に活動を続けていた男である。
最初、
氷室は耳を疑ったが、彼が本気であることを知ると、喜んで迎え入れた。

気心の知れた松井の参加は氷室にとって心強いものだった。
そして残りのメンバーを選ぶオーディションはここで中止された。
松井の参加で、氷室達はバンドにとってメンバー同士の気が合うという
ことが、どれだけ大切なことなのかに気づいたのだ。そのために
これ以降のメンバー探しはオーディションではなく、昔からの知り合いや
仲間だった連中の中から見込みのある者を探すという方法がとられた。

 

そして集まったメンバーは、布袋の昔のバンド仲間だった
ギターの諸星アツシサックスの深沢和明氷室が "スピニッヂ・パワー"
時代に唯一気のあった
ドラムの木村マモル。この3人だった。
氷室布袋松井、そして新たに3人を加えて6人となり、ようやくバンド
としての形も整ったところで、彼らはバンド名を
「暴威 」として活動を始めた。

 
 

1981

曲作りとリハーサルを繰り返しながら、メンバー全員で
バイトをしてバンドの活動資金を稼ぐという毎日が続いた。
5月からは、新宿ロフトで月1回のライブが行えるようにもなった。

 

ようやく活動が軌道に乗り始めたその矢先に、
ドラマーの木村マモルがバンドを脱退したいと言い出した。
もともと、正式のドラマーが見つかるまでの代理という約束で、
無理やり引きずり込んだのだから、しかたがないといえば
しかたがないことだった。

 

しかし氷室達にしてみれば、もうファースト・アルバムの
レコーディングも目の前に迫っているという時期だったために、
とにかく大至急代わりのドラマーを探さなければならない、
切破つまった状態に立たされてしまったわけだ。

彼らは再びオーディションを行った。
そしてそこで選ばれたのが、
高橋まことだったのだ。

 

福島出身の高橋は、学生時代にすでに "グレープジャム" という
バンドのリーダーを務めていた。そしてそれと同時に、他のバンドを
3つもかけもちしながら活動していたという、非常に精力的な人間だった。

高校を卒業後、仙台へと出た高橋は、そこで "暗殺剣" という
バンドを結成。それ以降、ホールを転々としながら活動の舞台を
東京へと移してきた。アマチュア・バンドの世界に顔の広い
高橋は、
"暴威" のことも新宿ロフトの初ライブを観て以来記憶に残っていて、
それでオーディションを受けたのだった。
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こうしてドラマーの穴も埋まり、夏の間にファースト・アルバムを
完成させることができた。しかし、そのレコード化の話の方は、
なかなか進展しなかった。

「MORAL」と名付けられたそのアルバムの歌詞のイメージが汚い
という意見がレコード会社から出され、発売に難色を示していたのだ。

音は出来上がっているのに発売の見込みが立たないという状況に
苛立ちを感じながらも、メンバーはそのうっぷんを晴らすかのごとく
ライブ活動にのめりこんでいった。

さらに早くも、この年の後半から翌年にかけて、かなりの数の曲が
次のアルバムに向けて作られ、準備されていった。


1982

都内でのライブ活動に熱を入れて行く中、バンド名も英字の
変えられた。そして3月21日、ようやくファースト・アルバム
『MORAL』
ビクターよりリリースされることになった。

しかし、アルバムに付けられたキャッチ・コピーを見て、メンバーは愕然とした。
<エアロスミスとアナーキーとサザンを足して3で割ったバンド>
<ラスト・パンク・ヒーロー>
という文字が飾り立ててあったのだ。
メンバーの思惑とは別に、レコード会社はその頃流行のパンク・ムーブメント
に乗せて
を売り出そうとしてた。

 

確かにその頃ののファンといえば、彼らの音楽に反体制的な
リアクションを求めるような者達が多かった。だが
BOφWYのメンバーは
日常の不満を歌にしただけでポリティカルなものを意識して自分達の音楽に
取り入れるつもりはなかった。

 

現実とイメージのギャップということでいえば、『MORAL』
レコーディングされてからリリースされるまでの約半年という短い期間にも、

の音楽性が急激に変化していたということも、その溝を広げる一因と
なっていたのかもしれない。

『MORAL』の曲はもちろん、それ以降に作られた曲でさえ、
その頃の彼らにとっては古いものに感じられるほど
ものすごい早さで変わり続けていたのだ。

そんなにとまどいを見せたのは初期の彼らのファン達。
そしてメンバーの
諸星深沢の2人にも同じことが言えた。

 

そういう状況の中、自分達が新しくやり始めた音楽を許そうとしない
周囲の状況に息苦しさを感じていた
布袋は、9月9日の渋谷PARCO・
パート3でのライブからがらりと方向性を変えてみようと提案した。
衣装もそれまでの黒づくめのものからポップ・ミュージシャンのような
派手なものに、演奏曲の方は当時レコーディング中だったセカンド・アルバム

『INSTANT LOVE』
からのものを中心にしようということだった。

メロディアスな曲にラブソングのニュアンスを込めた詞の組み合わせ。
こうして、このPARCOでのライブで彼らは今までののイメージを
捨て去り、全く新しいバンド・スタイルを打ち出すことになったのだ。
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こういう彼らのやり方に対して、ファンの反応は予想以上に冷たいものだった。
けれど彼らは自分達のやり方をあくまでも押し通したのだ。
ここに到って、そのやり方、また音楽性の変化にどうしても納得することの
できなかった
諸星深沢は、脱退の意思を表明。
結局10月9日、新宿ロフトでのライブを最後に2人は正式に脱退した。

こうしては、ボーカル=氷室ギター=布袋ベース=松井
ドラムス=高橋というロック・バンドの最小基本編成に落ち着いたのだ。

この頃、メンバーの中には自分たちの力で自分達をプロデュースすることは
できないものかという考えが芽ばえ始めていた。これ以上自分達の音楽に
他人が勝手なイメージを付けるのに我慢ができなかったからだ。

そのために、布袋は昔のバンド仲間だった土屋浩をメンバーに紹介する。
土屋はその頃ミュージシャンとしては活動していなかったが、
高円寺で貸しスタジオを運営するなどして、音楽の世界には関わっていた。
が独立するためにはマネージメントに長けた者が必要だった。

布袋土屋ならその期待に応えてくれるだろうと見込んだのだった。
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1983

土屋というマネージャを得た彼らはやがて、それまで所属していた
事務所を離れて、プライベート・オフィスを設立した。
<どこにも属さない>という意味を込めてコネクション 」と命名。

これで思いどうりの音楽活動が可能になった、といえば聞こえはいいが、
実際は宣伝活動からコンサートの告知に至るまで、
すべてのスタッフワークを自分達の手で行わなければならなかった。
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そして4月30日。独立記念とも言える新宿ロフトでのライブを皮切りに、
<アフロカビリー>と銘打った全国的なライブ・ツアーがスタートした。

オンボロの白いハイエースに乗って全国どこにでも出かけていった。
3万人集まるイベントがあるということではるばる九州に行ってみたら、
そのイベントとは村祭りでギャラは野菜だったという笑い話もある。

しかし結果的には、この時期のライブ活動が新しいバンド・スタイルを
作り上げ、そして新しいファン層を作ることになった。
東京での活動の拠点、新宿ロフトも彼らにとってはもはや手狭になり、
拠点は次第に渋谷のLive innに移りつつあった。

 

9月25日、セカンド・アルバム『INSTANT LOVE』とファースト・シングル
「OH! MY JULLY」
が同時にリリースされた。
ところが運の悪いことに、彼らが契約したはずのジャパン・レコードが
この時期、徳間音工と合併し、徳間ジャパンという新しい会社に変わってしまった。
このおかげでの宣伝費はカットされ、彼らがポスターを作りたいと
提案しても冷たく断られてしまった。しかたなくバイトして自分達でポスターを
製作したというエピソードもある。

 

こういったレコード会社のごたごたとは裏腹に、の人気は
日増しに大きくなっていった。
「OH! MY JULLY」のB面、「FUNNY-BOY」
は新宿有線で3週連続1位を記録。だが、同時に、自分達の力でやれるのは
この辺が限界だということも身を持って知ることになる。

これ以上のステップ・アップを望むのなら、もっとメジャーな力が必要なのは
確かなことだった。


1984

全国を回るハードなライブハウス・ツアーが続く中、
超満員のライブが続出し、の人気はもはやライブハウスには
納まりきれないほどの高まりを見せていた。

3月には新宿ロフトで、初の2日間連続のライブを行った。
両日とも満員。ツアー・タイトルは、
<アフロカビリー>から
<ビートエモーション>へと変わっていった。

 

こうしたライブハウスでの人気が、次第に音楽関係者には
知られるようになり、様々な音楽事務所、レコード会社の人間が、
彼らの前に現れるようになった。

もちろん彼ら自信もメジャーの必要性を感じていたが、
かといって安易にどこかに所属して、また嫌な思いをするのも嫌だった。
慎重に、冷静に、いろいろなオファーに応じていた中で、特に彼らの気を
引いたのは、
ユイ音楽工房のプロデューサー糟谷鉄司だった。
社長である
後藤豊氏と共に、のライブにたびたび姿を見せ、
熱狂的な観客に交って最後まで演奏を観ては、楽屋に顔を出してちょっとした
アドバイスをして帰っていく。他のプロデューサー達とは違う印象が、
彼からは感じられた。そのうちに、
土屋糟谷との間で何度となく話し合いが
行われるようになっていった。

そして10月7日。氷室の24回目の誕生日に開かれたミーティングで、
メンバーはユイと契約を結ぶことを決定した。そしてそれと共に、
その先の活動の準備のため、半年間ライブ活動を休止することにもなった。
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残っていたライブ・スケジュールは12月7日の山形ミュージックショーワで終了。
この日を最後に、はしばらくのあいだライブ活動を休止。
これは突っ走ってきたこれまでを振り返る充電期間であった。そしてまた
半年のブランクの後にどういう結果を迎えるのか、大きな賭けでもあったのだ。


1985

年明け早々、ユイ音楽工房と正式な契約を結んだ。
3度目のレコード会社は、邦楽ロックのメジャー・アーティストを数多くかかえる
東芝EMIに決定した。

ニュー・アルバムの制作に関しては、これまでのアルバムはすべて布袋
プロデュースしていたが、ここでは本格的なプロデュースの作業を学ぶために、
元プラスティックスの
佐久間正英氏にその仕事を依頼することになった。
レコーディング先は話し合いの結果、ドイツのハンザ・トン・スタジオが選ばれた。

 

2月24日の朝、一行は成田を出発し西ベルリンへと向かった。
約2週間ほどの短い滞在ではあったが、レコーディングは順調に進み、
満足のいくアルバム作りを行うことができた。その帰り、一行はロンドンへ飛んだ。

ロンドンには約一週間滞在し、その滞在中の3月12日、世界的に有名な
ライブハウスである
「マーキー・クラブ」で彼らにとっては初の海外ギグを
行なった。オーディエンスの反応は好意的、かつ熱狂的で、彼らは大きな
自信を土産に帰国した。
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帰国して数日後の4月13日、赤坂ラフォーレ・ミュージアムで、マスコミを
招いてのライブが行なわれた。としは初めてマスコミに招待状を
送って行なったコンサートだった。半年間の休止にもかかわらず、
そこには多くのファンが駆けつけ、またマーキーでのライブの評判を聞いて
彼らに興味を持っていたデペッシュ・モードのメンバーもたまたま来日中であった
ことからそのライブに顔を見せていた。

 

6月1日、シングル「ホンキー・トンキー・クレイジー 」リリース。
これに続いて21日にはサード・アルバム
がリリースされた。
このアルバム・リリースにあわせて6月25日、初めて大ホールでの
コンサートが行なわれた。場所は
渋谷公会堂。初め、彼らがここでコンサートを
行なうと発表した時、周囲のほとんどが反対した。絶対に成功しないから
やめた方がいい、という否定的な意見にもかかわらず、実際には前売り券は
すぐに売り切れ。当日券も完売した。満員の客達は、彼らのエネルギッシュな
ライブに酔った。
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8月22日。初の12インチ・シングルとして「BAD FEELIN'」「NO! NY」
カップリングでリリースされた。そして10月24日からは山中湖のミュージック・
イン・スタジオにて次回作のレコーディング・スタート。
氷室布袋によって
30曲という大量の曲が作られ、その中から10曲がセレクションされた。
アドバイザーとして前回と同じく
佐久間を迎えて、レコーディングは順調に
進んでいった。

 

12月24日、クリスマス・イブのこの夜、は再び渋谷公会堂
ステージに立った。そして、アンコールの場で、布袋はロック・シンガー、
山下久美子をファンに紹介し、2人が結婚することを報告したのだ。
これ以降、12月24日の渋谷公会堂でのコンサートが恒例化する。

 

年末、すでにレコーディングが終了していた4枚目のアルバムの
トラック・ダウンのため、メンバーは再びベルリンに向けて旅立った。
12月27日のことだった。


1986

今やの人気は留まるところを知らぬ勢いで上昇し続けていた。
レコード・セールス、コンサートの動員数も好調に伸びていた。
'85年大みそかにNHK「ミュージックウェイブ」で放送された日本青年館
でのライブが大きな反響を呼んで、1月24日に行なわれた中野サンプラザの
追加公演では、チケットが即日ソールド・アウトになるなど、ファンの
熱狂ぶりに拍車がかかっていった。

2月1日にはシングル「わがままジュリエット」、3月1日には4枚目のアルバム
『JUST A HERO』
をリリース。このアルバムは発売と同時に大評判となり、
チャート紙で最高4位を記録した。

 

これと前後して、ライブ・フィルムによる上映会 FILM EVENT―
JUST A HERO SPECIAL』
も各地で行なわれ、ゲストとして
メンバーもその会場へ出かけて、ファンとの交流を深めた。これを受ける形で、
3月24日の青山スパイラル・ホールを皮切りに
<JUST A HERO>ツアーを開始。

映画『 ブレード・ランナー 』をイメージしたセットが話題を呼んで、
コンサートはどこも超満員。そして7月2日のツアー最終日は
日本武道館で迎えた。
熱狂するオーディエンスに向けて
氷室が放った
「日本一大きなライブハウス、武道館へようこそ!」という台詞が話題になった。

 

7月5日、初のミュージック・ビデオ VIDEO』発売。7月31日には
武道館における初のライブ・アルバム
『GIGS』が10万枚限定でリリースされ、
あっという間にソールド・アウトになった。

続いて9月29日には、にとっては通算4枚目に当たるシングル
「B・BLUE」をリリース。これはテレビのベスト・テン番組にチャート・インした。
11月リリースの6枚目のアルバム
『BEAT EMOTION』はチャート誌で
初登場1位を獲得し、はついに名実共にNo.1ロック・バンドの地位を
確立した。そしてその人気の高まりを受けるようにして、11月11日から
< ROCK'N'ROLL CIRCUS>と題した全国ツアーを開始した。


1987

ツアーを終え、2度目の武道館公演を無事終了した後、メンバーは
2ヶ月半の長いオフに入った。
氷室はロンドンへ、布袋山下久美子
『POP』のプロデュース、
松井山下久美子バンドのメンバーとして、
ツアーに参加。
高橋フェアのために全国を飛び回るといった
様子で、それぞれがそれぞれのやり方でオフを過ごした。

そのオフの最中である4月6日にニュー・シングル「ONLY YOU」
リリース。そしてオフ明けの7月22日に発表された
「Marionette」は、
シングル・チャートで初の1位を獲得。の人気は過熱する一方だった。

 

夏はツアーこそ行なわなかったものの、全国各地で行なわれた
多くのイベントに参加。ライブ・バンドとしての実力を見せつけた。

そして7月31日と8月7日、<CASE OF >と名付けられた
このコンサートでは、デビューから'87年現在までのナンバー全曲を、
4時間ぶっつづけで演奏するという前代未聞のライブを成し遂げ、
ファンのみならず関係者をも驚かせた。

 

9月5日にリリースされた7枚目のアルバム『PSYCHOPATH』は、
CD、カセット、LPあわせて総売上げ80万枚を記録。チャート誌では
当然のように首位を獲得した。

 

秋からは< ROCK'N'ROLL REVIEW, DR.FEELMANS'
PSYCHOPATHIC HEARTS CLUB BAND>
と銘打たれたツアーを開始。
ところがツアー終盤になって、バンドの解散説が周囲に流れ始めた。

"解散" を単なる噂として強く否定したいファンの心をよそに、
12月24日、ツアーの最終日となった
渋谷公会堂のステージの上で、
正式な解散宣言が行なわれた。
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1988

クリスマスの解散宣言に対して、マスコミでは様々な記事が
憶測として扱われていた。この騒ぎに対してからの答えとして
発表されたのは、ファンへの最後の挨拶として完成直後の後楽園ドーム
<BIG EGG>において2日間のLAST GIGSを行なうというものだった。
2日間の入場者数役95000人分のチケットはたったの10分でソールド・アウト。
チケット入手のために殺到した電話で、文京区の電話回線がパンクするなど
の騒ぎもあった。

そして4月4日と5日、BIG EGGにおける最後の熱狂ともいえる2日間を終えて
はひとりひとりが新たな伝説を作り出すため、その姿をステージの中に消した。
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